アンリ・カバンヌ ― 第二次世界大戦(1943〜1945年)体験記

 

―― 目  次 ――

 

I.      フランスを逃れ、スペインへ

1.            脱出の準備

2.            ピレネー山越え

3.            スペイン横断

4.            モロッコへの出発

 

II.  空軍への志願

5.            カサブランカ、アルジェ

6.            マラケシュ

7.            イギリス

 

 

I.      フランスを逃れ、スペインへ

 

1.            脱出の準備

 

1942年10月、私は、理工科学校(エコール・ポリテクニック)への入学許可に2度目の辞退をし、高等師範学校(エコール・ノルマル)に入学した。実は1941年に、パリにあるサンルイ高校の“グランゼコール数学科特別準備クラス”の学生だった頃、理工科学校の入学試験に初めて合格していたのだったが。1943年2月16日、国営ラジオ局は“STO(=ヴィシー政権による対独協力強制労働)”制度の発足を発表した。1920〜1922年に生まれた若者たちは交代要員として徴兵され、ドイツに動員された。同時に、21〜31歳までの若者たちも徴兵の対象となった。同日夜、迅速にロンドンで「徴兵に反対せよ!」と反撃する声が上がった。徴兵前の逃亡を企てる者の人数は急激にふくれあがった。ロンドンにいたフランス人たちのSTO反対運動はそれまでのラジオ放送を通じた反独運動をあらゆる点で上回り、「早く戦争を終わらせたいのなら、決してヒトラーなどに協力してはならない!」と呼びかけた。1943年8月1日、「対独協力拒否者リスト」に載った人数は8万5千人にのぼった。1923年生まれの私には徴兵のおそれはなかったが、高等師範学校での学問を一時中断し、イギリス、または北アフリカに逃れようと決心した。

 

1943年8月、前月に物理学一般、微分学、解析学の免状を取得し終えた私は、オート=ピレネー県のベルナデ=デバに住み農地開拓をしている従兄弟たちのところへ農業奉仕に行った。STOに召集された村の3人の若者が、スペインとの国境から70キロしか離れていないところにいながらドイツに出発していったことを知って驚いた。タルブで、両親の友人であるドニ・プリュネ氏を訪ねた。北アフリカに行きたいという願いを私が打ち明けると彼は、非合法な手段を使ってフランスとスペインの国境を越えるために、ある秘密組織と連絡をとることを私に提案した。私は彼のところに到着しさえすればよく、タルブを出発するまで私をそこに泊めてくれるということだった。私は父方の祖母を訪ねるためにマルセイユを経由して、パリに戻った。祖母は私の計画に強く反対し、そんなことをすれば私の父が捕まると言った。私の父はパリ大学理学部の物理学教授をしていた。私はヴァール県の、両親の別荘があったレ・レック村にも何日か滞在した。レ・レック村はマルセイユとトゥーロンの間の海岸沿いに位置していた。何という気はなしに、浜辺や海沿いの別荘街にあるいろいろな設備を観察した。不測の上陸を妨げるための設備である。

 

パリに戻った私は、兄の学友であるフォンタネとベレというふたりの理工科学校生が、スペインに出発するための秘密組織を探していると知った。そういった情報を得るのは当然のことながら非常に難しかったが、知っていた私は好運だった。フォンタネは理工科学校を卒業するとすぐに、人から教えられたある秘密組織と接触するためにルルドに行ったが、その秘密組織は「摘発」され、もはや機能していなかった。そこで、コードロン=ルノー社の研究所にいったん加わるため、パリに戻った。そこはアウクスブルクにあるメッサーシュミット工場のための研究所だった。理工科学校はSTOの名目で、そこに数名の学生を派遣していた。そこでフォンタネは同期入学のベレに再会した。数人の理科系学生がSTOの名目でこの研究所で働いていた。フォンタネとベレは、私の兄から、私がある秘密組織を知っているのだがひとりで行きたくないと思っており、一緒に逃走する仲間を探していることを聞いた。私たちは3人で一緒に出発することに決めた。9月の終り頃、学校が私を探さないようにするため、私の旅立ちを知らせに高等師範学校の副校長ジョルジュ・ブリュア氏に会いに、父とともに行った。私は南フランスに休養に行っていることになり、ブリュア副校長は私の幸運を祈ってくれた。その後再び私が彼に会うことはなかった。彼はブーヘンバルトの強制収容所に送られ、ザクセンハウゼンで亡くなってしまったのだ。1943年10月4日、フォンタネとベレは研究所から姿を消し、私たち3人はともにオーステルリッツ駅から夜行列車でトゥールーズへと旅立った。

 

夜中にヴィエルゾンで、電車の乗客を検査していたドイツ兵が、ドイツ語で私に、身分証明書に押されている印が正しくないから電車を降りろ、と言った。それで私は電車を降り、夜が明けるまで車庫の中の空っぽの車両で過ごした。翌日、私はヴィエルゾンのドイツ司令部まで行き、そこで身分証明書に正しい印を押してもらった!駅に戻り、トゥールーズ行きの次の列車を待ち、10月5日の20時頃トゥールーズに着いた。ホテルの部屋を探すことの難しさとリスクを避け、トゥール通り80番地にある、友人のジャン・コンブの両親の家に行った。私はトゥールーズ、タルブ、マドリード、カサブランカ、アルジェ、ブラザビルの知己の住所を暗記していた(なぜなら、知人に害を及ぼすことがないよう、文字で書かれたものは何も身につけていてはならなかったからだ)。ジャン・コンブと彼の両親は、天から降ってきたかのように突然やってきた私を一晩家に泊めてくれた。翌日タルブに向かう列車に再び乗り、午後に到着、プリュネ氏のところに行った。彼は、一晩泊めてくれ、朝食を出してくれたが、日中は外で過ごし、外で食事をとらなければならなかった。その前日に彼はフォンタネとベレの訪問を受けていた。彼らはスペインに出発するまでの間、私と同じような条件で、ベレの姉の友人の勇気ある若夫婦のところに泊まっていた。翌日、フォンタネとベレと私は再会し、毎日3人のうち2人が日中を外でともに過ごし、残りの1人はひとりで過ごすことに決めた。20歳の青年3人が一緒になって何日もタルブの町をうろうろするのは危険に思われたからだ。それぞれ番が来ると、タルブの中心街ではなく外辺部をひとりで歩いた。一度だけ、私たちは一緒にルルドまで行った。秘密組織のメンバーに会うことは一度もなかった。彼らは、数日間生活するためのものを詰めたリュックサックだけを持って(1943年の)10月15日金曜日にタルブの駅に来るようにと私たちに通知した。同日、私はパリにいる両親に私の無用になった荷物を送り出した。

 

 

2.ピレネー山越え

 

3人別々に予定時刻にタルブ駅に着いた。秘密組織の責任者と思われる2人の人物が、1人につき3000フランという取り決められた金額を支払うように私たちに言った(当時、国立科学研究所の初任給が一ヶ月2000フランだった)。列車は、バニェール=ド=ビゴール行きの普通列車で、駅に入っていた。3等車両はコンパートメントに分かれていて、それぞれには片側に1つずつ、2つの昇降口があった。彼らは昇降口のうちのひとつを開き、フォンタネとベレと私にそのドアを開けたコンパートメントに乗り込むように言った。天井の電球が壊れていて、そのコンパートメントの中に座っているふたりの人を見分けるのがやっとだった。バニェール=ド=ビゴールのひとつ前のプザックの停車場で、コンパートメントの中のひとりの乗客が線路側の昇降口のドアを開け、私たちに降りるように言った。私たちは降り、列車は出発した。私たちはピレネー越えによる脱出を試みる9名とガイド2名の一行になった。

 

バニェール=ド=ビゴールから立ち入り禁止区間が始まっており、ドイツの許可なしでそこにいることはできなかった。私たちはすぐに田野と草原を通って旅立った。サント=マリー=ド=カンパンを通り、一晩中かけてアスパン峠まで歩いた。それから私たちのガイドは、別のガイドが翌晩の行程のために私たちを探しに来ると言い置き、ある森で別れを告げた。それで私たちは

10月というのに、戸外の標高1500メートルの場所で眠ろうと試みた。行軍1日目の夜とアスパン峠近くの森の中での一日の「休息」を通じて、私たちは脱出の道連れたちと知り合った。最も若い者は17歳で「ヴェルマルト」(ドイツ軍)に無理やり入隊させられたアルザス人だった。彼は勇気を持って「脱走」し、フランス軍に志願するためモロッコに辿り着こうとしていた。また別の者は、サンシール陸軍士官学校の入学試験に合格したばかりだった。彼は、地図と磁石を使ってひとりでスペインに行けるものと思い、一週間前からピレネー山脈をさまよい歩いていた。フォンタネとベレと私が理工科学校および高等師範学校の学生だと知ると彼は安心したが、すでにかなり疲れていた上に、短マントや予備の靴を準備するなどの重装備をしていたのだった。私たち3人はといえば、秘密組織の組織者の忠告に従って小さなリュックサックひとつに数日間生きていくための荷物を入れていただけだった。他の4人の逃亡者たちについてはあいまいな記憶しか残っていない。

 

10月16日土曜日の夜、新しいガイドが私たちを探しにやってきて、わずか数時間歩いたところにある穀物倉に連れて行き、そこで残った夜の時間と10月17日の日曜日の日中を過ごした。もちろん物音をたてず、外に出ることもなくである。日曜日の夜、また別のガイドが私たちを探しに来た。最も危険な行程は、ヴィエル=オールの村で谷の斜面を通るために橋を渡ることだった。ドイツ兵たちが村のカフェのテーブルにいた。私たちは、おそらく村の住人であろうガイドのサインに従ってひとりずつ橋を渡った。続いて、スレート採取場に辿り着き、そこで朝の5時まで「休憩」をとった。それから新しいガイドが私たちを探しにきて、今度は山腹の小道や谷の東斜面をリウマジュの救護所の上の地区まで歩いた。雪が道を覆い始めていた。

 

10月18日日曜日のことだった。11時、私たちのガイドは、プラン峠(標高2457メートル)を指し示した。その後ろはもうスペインだ。ガイドは30分でそこに着くだろうと言い、良い旅の「終わり」を祈ってくれた。私たちは雪の中、山をよじ登り始めた。雪はまずふくらはぎのあたりまで、それからひざまでの深さになった。14時、峠は常に視界に入っていたが、そこに近づく速度はどんどん遅くなっていった。15時、疲れ果てて、私は雪の中にリュックサックと、その中に入っている食料を捨てた。フォンタネとベレは私よりも強くて、それを拾い集めてくれた!私たちのうち6人が行程を続け、他の3人は力尽きて谷を元に戻ることを決めた。16時、私たちは国境のプラン峠に着いた。当然のことながら、ドイツ人もドイツに協力するフランス人もすべての峠、とくに私たちが突破したプラン峠のような立ち入り困難な峠を見張ることなどできなかった。

 

 

3.      スペイン横断

 

スペインに着いた!自分たちもその一部だったものの、23,000人ものフランス人たちがフランスからスペインへの脱出に成功したとはまだ知らずにいた。夜が訪れていた。私たちは穀物倉を見つけるまで谷を下り、そこで夜を過ごした。雪の中の長い行軍で衣服が濡れていたので、裸になって干草の中で眠り、タルブを出てから初めて安らぐ夜を過ごした。翌日の10月19日火曜日、シンクエタの谷を再び下り始めた。道中、渡らざるを得ない橋があり、その橋を渡ったところ、谷の向こう側の斜面で、スペインの民間の監視人が若いフランス人を待ち構えていた。当時、とても高いところにある色々な峠を通って、若いフランス人たちが週に何回もここに来ていた。私たちは、監視人と一緒に、彼らの仕事が終わる16時頃までそこに留まり、それから彼らと一緒にプランの村まで降りた。そこには彼らの駐在所があった。

 

村の農民たちは私たちを心から歓迎してくれ、パンやソーセージなどの食料を与えてくれた。私たちはもう何も持っていなかったのだ!そのあと、監視人は夜の間私たちを非常に質素な建物の中に閉じこめ、数日後に領事に会うことのできる最も近い町まで連れて行くと言った!私たちはもう何も持っておらず、何もわからず、どこへ行くこともできない始末だった。日中、彼らは私たちを自由にしてくれ、プランの村の農民たちは食べるものを与えてくれた。彼ら自身、とても貧しいように見受けられた。数日後、正確な日付は覚えていないが、領事に会うことのできる最も近い町まで行くバスに乗るため、私たちはまず徒歩で監視人とともに出発した。私たちはその町のことを知らなかったが、それはバルバストロという町で、村から106キロ離れたところにあった。12キロ歩くと、私たちはサリナス・デ・シンに着いた。そこでビエルサとバルバストロをむすぶバスを待たなければならなかった。監視人たちはバス代金を支払うためのお金を私たちに要求した。金はないと答えたが、本当は残っていたわずかな金を取っておきたかったのだった。

 

監視人たちは私たちに、金を払えないなら歩いてバルバストロに行くことになると言ったが、プザックからプランの村に着くために幾晩も歩いたことを考えると、私たちはひるみもしなかった。私たちは次の村まで徒歩で歩き、そこで監視人と一緒にビエルサから来た長距離バスに乗った。アインサの小さな町でバスはかなり長い間止まり、監視人たちは私たちを、カフェに連れて行った。そこの主人は私たちの持ち合わせがあまりにも少なかったので、無料で食べものを与えてくれた。私たちを何日もの間食べさせてくれたこのスペイン人たちには私たちが英雄に見えたようだった。彼らはたぶん、私たちがドイツと戦いに行けば、フランコ体制の終わりを早めることをなると考えていたのだろう。どうやらそれが彼らの望みのひとつだったようだ。20時ごろようやくバルバストロに着き、監視人たちは、私たちをもと修道院だったある建物に連れて行った。私たちは彼らとともに中に入った。ひとたびドアが閉められると、私たちは領事のところではなく、牢獄にいるのだということに気づいた!私たちのおめでたさといったら計り知れなかったが、いずれにせよ他にやりようもなかったのだ。

 

私たちは牢獄にいた!私たちの名前は登録され、身元を訊かれ、持っているものをすべて出させられた。つまり少々のフランス通貨を、何の役にも立たない領収書と引き換えに没収された。それから私たちは、70人ぐらいのフランス人がいる広い部屋に連れて行かれた。彼らはいつからここにいるのだろう?同囚たちに少し詰めてもらって、6人で4人分のわら布団が確保できた。フォンタネとベレと私は、ふたつのわら布団の上に身をおき、一ヶ月にわたったバルバストロの牢獄滞在中ずっとこのようにして眠った。

 

私たちは国境を越えたときの衣服しか持っておらず、同じ格好で12月26日まで過ごした。その日、私たちを乗船させるためにマラガに連行する道中で、マドリードにある赤十字(どの赤十字だったのか?)が新しい衣料を支給してくれた。同囚たちは私たちにフランスや戦争についての情報を尋ねたが、彼らの質問することから考えると彼らは少なくとも6カ月前からここにいるらしかった!私たちはひどく落胆した。いくらかやりとりを交わし、私たちの落胆した様子を見て、彼らは笑い出した。なぜなら、当時バルバストロの牢獄の収容期間は約1ヶ月ぐらいだったからだ。新しい囚人が来るたびに、こうしてからかわれるのだった。翌日、私たちは牢獄の散髪屋のところに行って頭の先から脚の先まで剃髪してもらった。10時ごろ、私たちの部屋の囚人たちは皆、1時間中庭に出た。そこで別の大きな部屋に収容されているフランス人たちに会った。そのフランス人たちの中に、フォンタネとベレは理工科学校の友人を見つけ、私は兄の高校時代の友人、ジャン・ベドンと再会した。ジャン・ベドンはサンルイ高校で海軍学校の受験準備していた。海軍学校はもうなくなっていたが、採用試験は続いており、合格した学生たちはパリ国立中央工芸学校の授業に出ていた。

 

バルバストロの牢獄は多くのスペイン人も収容していた。彼らは数年前から収容されていたが、フランコ将軍が亡くなる1975年までずっと権力の座についていたため、それからさらに何年間も収容され続けた。スペイン人の囚人がフランス人の囚人と同じ時間に中庭に出ることはなかった。中庭は牢獄の全囚人が出られるほど広くなかったのだ。牢獄では日曜日ごとにミサがひらかれた。スペイン人にはミサに出ることが義務付けられており、フランス人は任意だったが、共同部屋を出るもう一つの機会になったので全員が出席していた。国境を越えてくるフランス人たちが定期的に牢獄にやって来た。ある日、私たちは10月18日にプラン峠の斜面で引き返した3人の仲間のうちのひとりに再会した。彼は他の2人のうちの1人とリウマジュの救護所まで降りたが、3人目の仲間は疲れ果てて雪の中に寝てしまい亡くなったと私たちに説明した。亡くなったのはサンシールの士官学校の入学試験に合格していた仲間だった。サンシールの士官学校はもうなくなっていたが、そこに入学するための受験予備クラスや採用試験はまだ実施されていた(おそらく将来を考えてのことだったろう)。彼はまだ21歳だった!サポンという名前だった。

 

定期的に、牢獄の長官がバルバストロを出獄する囚人の名前を読み上げに来た。1ヶ月後、フォンタネとベレと私の名前が出獄者リストに載った。ほんとうにうれしかった!私たちは2人ずつ手錠につながれ、列車でサラゴサまで行った。サラゴサの駅に着くと、相変わらず2人ずつつながれたままで、徒歩で牢獄につながる道を歩いた。それはとても現代的な牢獄で、10平方メートルの部屋に約15名のグループが収容された。部屋の隅に水道の蛇口があり、穴がひとつ開いていて、それが便所の役目をなしているのだった!

1〜2時間後、わら布団が運ばれてきたが、全員が同時に横になるのは不可能だった!この地獄が3日間続いたあと、私たちは来たときのように列車でミランダの強制収容所に向けてあらためて出発した。

 

ミランダの収容所はバルバストロの煉獄とサラゴサの地獄を経験した私たちには、天国のようなところだった。収容所は内戦の時期に、ヒトラーの忠告によりフランコ将軍によって建てられた。何千人もの囚人を収容することができ、実際収容していた。きれいに列に並んだ木製のバラックで構成されており、120〜130人が各バラックに収容されていた。収容所は軍隊によって監督・組織されていた。有刺鉄線がめぐらされ、監視哨がある壁のある、よくある収容所だった。フランスに何の親しみの感情も持っていないらしい大佐が収容所の指揮をとっていた。しかし、収容所の真の現実を知るときがいよいよやって来て、特に不潔さで胸が悪くなるような飯盒、スプーン、わら布団、蚤がいるぼろぼろの掛け布団といった物資の配給に現実が顕著に表れた。バラックは中央を廊下で分けられ、その両側の2つの階には古い掛け布団で作った「壁」で仕切った狭い「部屋」が一列に並んでいた。たったひとつのランプが廊下にわずかな光をともしていた。それぞれの「部屋」に幾人もの人が生活していた。私はバラックのひとつに入ったが、理工科学校を出ているフォンタネとベレは「士官棟」に入り、私は彼らをそこに訪ねた。

 

「士官棟」を訪ねたある日、サンルイ高校で知り合い、1943年理工科学校の入学試験に合格したばかりのジャン・ルソーがこの棟にいることに気づいた。「士官棟」は、おそらく最も古株の士官であるルイ大尉の責任下にあった。私は、同じように投獄されているルイ大尉に、私も1941年と1942年に2度も理工科学校に合格したこと、けれども高等師範学校に入るためそれを辞退したこと、そしてジャン・ルソーと同じぐらいまたはそれ以上に「士官棟」に入る資格があると思っていることを説明した。フォンタネとベレと私と一緒にバルバストロやサラゴサにいたルイ大尉は私に荷物を取りに行って戻って来るようにと言った。荷物などろくにないので、すぐ言われたとおりにした。当然のことながら、ミランダでの生活はつらく、衛生状態もひどかった。ミランダはエブルの上、ビルバオから南に80キロ、標高460メートルに位置し、時は12月だった。

 

それでも、収容所内部では私たちは自由で一日中散歩することが出来た。15日ごとに、翌日開放される何百人、もしかしたら千人にものぼるリストが貼り出された。1943年12月24日、フォンタネとベレと私の名前が翌日開放される者のリストに載った。12月25日、私たちはミランダの収容所を出て、スペインで自由の身となった。

 

 

4.            モロッコへの出発

 

ミランダの収容所を出ると、アルジェに本拠地のあるフランス国家解放委員会の代表者たちに迎え入れられた。私たちはようやくのことでミランダのあるレストランに、食事らしい食事をとりに行った。そして夜のうちに列車でマドリードに旅立ち、12月26日の朝到着した。赤十字センターに連れて行かれ、そこで私たちは、パリを出発した10月4日から一度も着替えることができなかった衣類を脱いで捨てた。新しい衣服を着て、剃髪し、シャワーを浴び、十分に食べ、マラガに向けて旅立つために夜までに帰ってくるようにと言われて、スペインのお金を少々もらった。私は1939年高等師範学校同期入学でマドリードのフランス人学校の教師をしていたギー・ルフォールに会いに行った。高等師範学校のカルコピーノ校長とブリュア副校長は、STOに学生達が召集されるのを避けるため、多くの高等師範学校生をマドリードのフランス人学校勤務に任命した。当然こういった学生たちはビザを所持し、寝台車でマドリードにやって来たのだった。ルフォールの連絡先は暗記していた。私を迎えて、ルフォールは自慢げに、自分とフランス人学校の同僚達はドゴール将軍に賛同しているんだと言った。私がそれはどういうことかと尋ねると彼は、これから彼らに給料をくれるのはもうペタンではなくドゴールなんだと言った!私は彼のすばらしい行いを称え、自分はスペインの牢獄で2カ月以上過ごした後、モロッコに行って空軍に志願するのだと告げた。

 

私たちはバスに乗ってマドリードを後にし、一晩中走った。バスは乗り心地が良く感じられたが、私たちにとってはどんなことでも心地よかったのだ。夜明けに、グラナダで半時間とまり、朝のうちにマラガに着いた。1943年12月27日月曜日のことだった。およそ1500人にも及ぶフランス人たちは、おもにミランダの収容所から来ていたが、いくつかの牢獄や「海辺の保養地」からも来ていた。「海辺の保養地」というのは、18歳以下だと自己申告するフランス人2,000人までを収容していたホテルや民宿のことである。マラガで出発を待ちながら、私たちはマットレス代わりにわらが敷かれた円形闘技場の中に泊まった。日中、私たちは自由だった。

 

10月21日から12月29日までの間、2隻の船の6つの船団がマラガからスペインを出発し、合わせて約9,000人のフランスからの脱走者を輸送した。12月29日、すでに先の5船団を形成していた二隻の船シディ・ブライム号とレピン総督号がマラガの港に現れた。円形闘技場に泊まっていたフォンタネとベレと私と1,500人のフランス人たちが港に入った。船に乗り込んだ。午後、スペインの海岸が遠のいていくのを眺めた。私たちはモロッコに向けて出発したのだ!1943年12月31日金曜日、私はアフリカ大陸のカサブランカに上陸した。88日に及んだフランス脱出、パリからカサブランカへの旅が終わった。

 

 

 

II.  空軍への志願

 

5.            カサブランカとアルジェ

 

1943年12月31日金曜日、マラガから2隻の船に乗ってカサブランカに到着したすべてのフランス人たちは、たくさんの手続きを済ませるため、中継の収容所に連れて行かれた。最初の手続きは、自己申告にもとづいて交付される仮の身分証明書をつくることだった。続いて士官たちが、履歴、学歴、ピレネー山越えのこと、スペインでの滞在などについて、私たちに長時間にわたり質問した。こうして私はフランスとスペインの国境を越えた日である10月18日付で少尉に任命されることを知った。フランスから脱走した者のうち、4つの軍隊学校、すなわち理工科学校、サンシール士官学校、海軍学校、空軍学校の学生であるか、もしくは民間の5つの学校、すなわち高等師範学校、パリ国立高等鉱業学校、国立土木学校、パリ国立中央工芸学校、植民地学校の学生である者たちは皆、同じ条件で少尉に任命された。

 

別の士官たちは、来たるフランスでの戦いにおいて有利になりそうな情報を私たちに聞いた。私はわずかに知っていたレ・レックの浜辺や海沿いの別荘街の設備について話した。それから戦争中空軍に志願する旨署名した。この時からフォンタネとベレの辿る道と私の道は別々になった。フォンタネは砲兵隊に志願し、ベレは戦車隊に志願した。フランスからの脱走者は望んだ通りの部隊に志願することが出来た。スペインから船団が到着するたびに、アルザス人を装って「ヴェールマルト」(ドイツ軍)のスパイが紛れ込んでいて、見つかると銃殺された。1944年1月4日月曜日、私は中継の収容所を出て、カサブランカの209兵站部に移った。この兵站部で私たちは大変充実した軍装備を受け取り、(官報による)高等師範学校入学確認と少尉任命のためアルジェに送られるのを待った。

 

カサブランカ滞在中、私の母の実の従兄弟であるアンドレ・モワテシエに会いに行った。彼の住所もやはり暗記していた。彼は私に、高等師範学校の同期入学生マルセル・ボワトゥーが数ヶ月前にジブラルタルからカサブランカに来たと言った。ボワトゥーと私は1942〜1943年度の間ずっと寮の同室ですごしたが、お互いに相手が北アフリカで戦っているフランス軍に志願するために学問を中断する準備をしていたことを知らなかった。こういった計画がいかに極秘であったかがわかるだろう。ボワトゥーは、スペイン人によって拘置されることもなく、たった2週間でスペインを横断した。実は彼は、フランスに墜落したアメリカ人パイロットたちと一緒にピレネーを越えることによって、こうした芸当をやってのけたのだった。このパイロットたちはいったんスペインに着くとマドリードのアメリカ大使館に連絡を取った。フランコ将軍はアメリカ人を牢獄に送ることはなく、大使館の要員がパイロットたちとボワトゥーを探しに来て、ジブラルタルに連れて行ったのだった。209兵站部で、私と同じ船団でスペインからやってきた、1943年理工科学校合格のラングロワ=ベルトゥロと知り合った。彼は私と同じようにアルジェに出発するのを待っていた。彼は17歳と自己申告していたので、スペインでは「海辺の保養地」に滞在していた。スペイン横断の状況について、私よりもよく情報をつかんでいたのだ。ようやく、ラングロワ=ベルトゥロと私は列車の家畜車で、とはいえ快適にアルジェに向けて出発した。

 

アメリカ、イギリス、フランス兵の巨大な軍隊が北アフリカに集合し、当然のことながら交通機関は多くの問題をかかえていた。何日も幾晩もたち、何度も停車してから、私たちは1月16日アルジェに着き、配属された320番基地に合流した。それから、最終的な身分証明書の取得を含む大量の手続きを済ませ、少尉任命を待った。任命されたのは3月3日だった!アルジェに到着するとすぐに、私は「獏の鼻面が空を仰いだ!」というメッセージを送るためラジオ・アルジェに赴いた。私の両親と何人かの友人と示し合わせ、ラジオ・アルジェで流されるこのメッセージを、私が北アフリカに到着したサインにしてあったのだ。このメッセージを両親は聴かなかったが、友人たちが聴いてすぐに両親に知らせてくれた。アルジェで過ごした6週間の間に、パリ大学の理学部教授ジョルジュ・ダルモワに会いに行った。彼は私に、やはりパリ大学理学部教授のイヴ・ロカールもアルジェリアにいると告げた。私は彼が高等師範学校の理科系の一年生向けに行なっていた授業に出席しており、7月に物理一般学位取得のための口頭試験を彼のもとで受けたのだった。ロカール氏は飛行機でフランスを発ったのだった。彼は無線標識の専門家で、イギリスが彼を見つけ出すために送り込んだライサンダー機は1943年9月13〜14日の夜にポワチエ地方の平原に着陸していた。ライサンダー機というのは、パイロット、機関銃手、2名の乗客の計4人乗りの小さな単発飛行機だった。ライサンダー機は、満月の夜またはそれに近い夜に、レジスタンス運動家たちに指示された平原に着陸した。このようにして、640人のフランス人がフランスを離れてイギリスに行った。この数字をピレネーを越えたフランス人の

23,000人やそれに失敗した7,000人と比べてみるべきであろう。この数字には何千人という外国人も加えなければなるまい。

 

この6週間の間、私はほとんど毎日のようにアルジェ大学の図書館に通った。私はもちろん戦争が終わったら高等師範学校に戻って学業をまっとうしたかった。だからそこで学び始めた数学を忘れたくなかったのだ。図書館で私は素数分布に関するアダマールの定理の証明を読み、まとめ、超越数についての勉強を始めた。アルジェで、私は科学関係のめずらしい書物を見つけ購入した。アンリ・ポアンカレの天体力学の3巻本である。私はアルジェで叔父のアルベール・ファブリと叔母を訪ねた。叔父はクロード・ベルナール通りのアルジェの街がきれいに見渡せる別荘に住んでいた。彼らは大変歓迎してくれ、私は何度も彼らの家に泊めてもらった。3月の始めラングロワと私は相応な俸給の追加支給とともに少尉の任命を受け、3月3日、カサブランカ行きの列車に再び乗り、旅客車両で相変わらずの長い旅をした。カサブランカに着き、20名ほどの若いフランス人士官見習生とともに搭乗員準備センターに配属された。私たちは航空機搭乗員になるための訓練研修が許される次期入学者に内定していた。私たちは4月12日までカサブランカに残った。

 

 

6.      マラケシュ

 

4月13日、すべての研修生、つまりラングロワと私の少尉2名と士官見習生約20名は、マラケシュの搭乗員技能練成学校に着いた。学校を指揮していた司令官は、ラングロワと私が軍人の経験がないのに少尉に任命されたことを普通ではないと考えた。それで私たちは、士官見習生たちと同じところで寝て同じものを食べるよう言われた。大勢の同室者たちとともに、2段ベッドで眠ることは全く苦にならなかったが、食事のときは給仕をしてくれるモロッコ人兵士の前に飯盒を持って並ばなければならなかった。この兵士たちはまだ兵隊である他の士官見習生といっしょに列に並んでいるふたりの士官を見て驚いた様子だった。彼らは私たちが罰を受けているのかと思ったに違いなく、ラングロワと私は困って、3日目には少尉の階級章をはがしてしまった。こういった状況は私にはひどく不愉快だったので、私はラングロワに司令官に説明しに行こうと提案した。彼が断ったので私がひとりで行くと、司令官は間違いを認め、私たちが眠るにも食べるにも士官たちと同じようになるようにしてくれ、士官食堂で食事できるようになった。

 

マラケシュの学校では、航空士の資格取得の勉強をした。そのためには、私たちは理論面の授業に出なければならなかったが、教官が数学特別クラスレベルと言った授業は私にとって2級のものに思えた。同時に、私たちはあるときは航空士を目指す学生、あるときは乗客としてフライトを経験した。航空士の資格を取得するには100時間以上のフライトを行なわなければならなかったからだ。私たちが乗った飛行機はレオ45、またはセスナだった。空軍基地での生活はお金がかからず、俸給の90%は小遣いになった。それで、毎月俸給をもらうと皆でマムニア・ホテルに食事をしに行った。このホテルは世界的に評判の高い大変豪華なホテルで、チャーチル首相が泊まって休憩したことのあるところだった。食事はすばらしく、値段も相応だった。ある日私はフォンタネとベレに再会し、のちにエッサウィラという呼び名に変わったマガドールの街で1日をともに過ごした。私はおそらくもらえそうにもなかったので許可なしに外出しており、戻ってくるとその日に飛行リストに登録されていたこと、私の同僚たちの善意と、ある教官の理解のおかげで懲罰を逃れたことを知った。研修も終わりに近づいた頃、ラングロワはパイロット志願学生の飛行機に、乗客として乗り込んでいた。この学生は着陸に失敗し、ラングロワとともに死んでしまった。ラングロワの5人の友人とともに私は、マラケシュの墓地に彼の棺を埋葬した。8月18日研修は修了した。私はトップの成績で修了し、航空士の資格を取得した。研修はそれほど難しくはなかった。続いて専門研修をしなければならず、私は重爆撃機を選んだ。この研修はイギリスで行なわれていた。8月20日、同じく重爆撃機を選んだ他の新しい免許所持者たちとともにアルジェに近いバラキの兵站部に向けて出発した。(1944年)9月7日、私たちはイギリスに向けアルジェで乗船した。一行は船団を組んで航行し、グラスゴーに近いスコットランドのグリーノックに9月14日到着した。

 

 

7.      イギリス

 

私たちは、ロンドンに近い「愛国学校」と呼ばれるトランジット・センターで何日かを過ごした。ロンドンで偶然、ルクレール将軍のパイロットに出会った。彼は翌日パリで、私がフランスを出て以来初めての両親にあてた手紙を投函してくれた。1944年9月25日、ロンドンでホイッタカー、ワトソン著「近代解析学講座」という数学の本を1冊買った。高等師範学校に戻ることを考えに入れて、イギリス滞在中ずっと大変注意深くこの本の内容を勉強した。また、イギリス滞在中には超越数の構成に連分数を適用することについての論文も執筆した。フランスとイギリスの国家関係が修復されたので、私は父にこの論文を送った。父が「科学評論」に提出してくれ、私の論文はこの雑誌で発表された。

 

ロンドンのあと、私はフィレーにあるセンターに派遣され、ついでスコットランドのダンフリースにある「上級訓練部隊」に移された。ダンフリースには10月10日から1月24日まで滞在した。それから、やはりスコットランドのロシーマウスにある「作戦訓練部隊」というセンターに配置換えになり、1945年1月2日から3月9日まで滞在した。このセンターでクルーの班が形成され、私たちは班をなして夜間飛行をした。ロシーマウスは北緯58度の位置にあり、季節は冬だった。日が暮れるのが早く、夜間飛行には適していた。航空士が飛行し、他のクルーとともに副航空士も飛行した。私がこのようにしてイギリス人の班とともにある夜飛行していたとき、着陸の際に降着装置が壊れ、滑走路を擦ったあとで飛行機から火が出た。イギリス人たちは全員どちらか一方の非常口から脱出することができたが、私は火に完全に取り巻かれて同じように脱出することができなかった。ウェリントン型の飛行機はアルミニウムの枠組みを布で覆ってできていた。私はどちらかというと痩せていたので、アルミニウムの枠の間の布を破って脱出することに成功した。イギリス人の班員たちが「フランス人航空士」がどうなったかと尋ね合っているのが聞こえた。全員無事だったが、飛行機が燃えるのを見ていた仲間は、私たちが全員死んだものと思っていた。

 

3月9日、ロシーマウスの各班はハリファックス機搭乗に転向するため別の基地に送られた。私たちはハリファックス機で作戦飛行することになっていた。1945年5月5日、私たちは自由フランス軍のふたつの重爆撃機隊のうちのひとつであるギュイエンヌ隊に到着した。私たちは皮肉たっぷりに迎え入れられ、このようなかたちで、2年近くにも及んだ苦難の冒険を終えることを大変辛く思った。3日後、ドイツが無条件降伏に署名し、戦争は終わった。

 

私たちはドイツの上空を飛行し、不要になった爆弾を北海に捨てた。

1945年6月18日、私たちの班はシャンゼリゼの軍事パレードに参加した。ヨークシャーのエルヴィントンから出発し、予定の時間にシャンゼリゼ上空を飛行し、エルヴィントンに戻った。7月、ボルドーに近いメリニャック基地にギュイエンヌおよびガスコーニュ重爆撃機隊が居を定める準備をする先遣別働隊に配属された。1940年6月17日、ドゴール将軍がロンドンに向けて飛び立ったのはこの基地からだった!私は21ヶ月ぶりに両親に会うため、ボルドーから何日間かパリに行くことができた。メリニャックで私は、まだ取っていなかった最後の免状、理論力学士の資格取得の準備をした。

 

私はパリの人員収集管理センターに送られ、そこで10月21日動員解除となった。フランスとスペインの国境を越えてから2年と3日後のことだった。10月24日、私は理論力学の修了証書を取得して学士課程を修了し、

2年目の最終学年を過ごすため、高等師範学校に戻った。

 

(おわり)

翻訳 : 笠井 かおり